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ホーム水屋神報>167号(平成17年5月20日発行)
 

歓喜天に祈る

フランス国 光明院住職 医師 融快 〔訳者 融仙〕

 宝の山という寶山寺はすばらしい地形にある。本尊の不動明王は生駒山脈の中腹、般若窟と呼ばれる岩壁から奈良平野を見守っている。数々の仏像はどれも力強く美しい。多くは開山湛海の作で有名である。絵画彫刻に秀でた湛海和尚は、又、厳しい護摩修行を積まれた方で、その法力と歴代の山主達の法力に加え、数百年に渡って参拝した信者達の真剣な祈りが込められている。静かな和らぎのただよう境内に参拝に来る人々のみならず、国中が、毎日僧侶達によって修されている祈りに守られている。私の師僧、故青木融光大僧正は、真言宗豊山派の長老であったが、寶山寺は霊験顕かな聖天様を祀る大変ありがたい寺で真言宗全体をお守り下さっていると言われていた。
 聖天様とも呼ぶ歓喜天は、頭が象、身体が人間の男女の二体が合体した歓びと和合の神である。男尊はインドのビナヤカという障碍神であるが、実は人間の奥深く秘む生命の力、コントロールの届かない原始的、動物的な欲望である性欲を象徴している。女尊は菩薩で、慈悲と知慧をもってやさしく導く十一面観音である。生命力から生れる様々なこの世での欲望をかなえながら悟りに導く、言うなれば歓喜天は生命のエネルギーの変換者である、昔から秘中の秘仏と言われている。
 歓喜天の遠縁にあたるのがインドで人気のあるガネシャで、大きな太鼓腹と長い曲がった鼻を持って小さなネズミに乗っているが、これは、正反対のものでも調和させる能力を持つことを象徴している。古いタントラの伝えでは象は人間の背骨の基にあるチャクラを表わし、解脱に到達するためには目覚めさせなくてはならないクンタリニというヘビのようなエネルギーと関連がある。同時に喉のチャクラをも表わし、知識を得ることを言う。だから一つの現実を別の面から見ることが出来、自然に成功に到るのも不思議なことではない。インドでは芸と学問の女神、サラスバチ(弁才天)と富の女神ラクシュミ(吉祥天)に囲まれて描かれていることが多い。
 ガネシャは潜在意識を支配し、内外の障碍を除くことで有名で、大事な行事には必ず絵姿を祀り、祈る。例えば寺院や家の入り口とか宗教書の第一頁に描かれているし、すべての儀式の始めに祈る。
 又、古代にはガネシャの祭祀は極秘密にされていて、王に仕える特殊階級の人々の間でだけ伝えられていた。なぜなら象の頭は宇宙を支配するとされ、従って王国を支配する力を持つと考えられていたからである。
 仏教がこの神をとり入れ、日本に伝わったときには歓喜天、詳しくは大聖歓喜双身天王と呼ばれた。双身であることにより、人間と宇宙、男女の相対する性と異なる感性の和、他のためにつくす菩薩の慈悲と知慧、天部の現実的欲望を象徴し、宇宙根源の二つの面を合せ調和することを示している。同時に人間内面においては性欲と心の調和均衡を表わす。
 歓喜天は威力強大な守護神である故、古くから真言宗の大寺院で必ず祀られている。又、京都の東寺で毎年、年頭に厳修されている伝統ある儀式で国と天皇のために祈る御修法に欠かさず祈られている。
 真言宗の最も重要な教えを描いた金剛界と胎蔵界の両部の曼荼羅の中でも門を開ける大切な役目をもっている。別に伝えられている極秘の曼荼羅には十一面観音、大黒天、弁天、稲荷、妙見と共に中央に描かれている大変深秘な神である、大日如来の働きをこの世に現わし、各人の祈りに応じて何事もかなえると言われているが、何よりもありがたいのは仏道修行にも必要な資材と難解な教義を理解するために適切貴重な助言お与え、すべての災いを除いて悟りへと導かれることである。
かけがえのない友
 私は子供の頃から象が好きであった。象さんというあだ名をつけた者もいた。前世からの縁であろうか、或いは自分が、まじめで親切好きで分別のある人間と思ったところが、私の想像する象のイメージと合ったのかもしれない。象のように、私も怒りを爆発させることがある。乱雑や不注意、なまけがきらいで何事もキチンとしたのが好きだからである。
 普通、神や仏に祈っても、身近の友達のようにすぐに反応があることはあまりないが、歓喜天は反応が早い。必要に応じ、現実に応じて働く。全く偶然に思える出会いも後になって人生を結ぶ深い縁であったことに気がつく。自分で勝手に祈ろうとするのではなく、歓喜天が我々を選んで呼んで下さったと本当に思う。
 今でも忘れられない、私と歓喜天の出会いは、御修法に出仕された青木先生のお供をして行った京都の東寺で、歓喜天を修される方にお目にかかりたいと言い終わったその瞬間に、障子戸が開いて入って来られたのが寶山寺の故松本管長で、同時に歓喜天も私の人生の扉を開いた。三十年前のことである。
 教えのように十一面観音法を修して準備をした上で、松本管長から聖天法の華水供、後には浴油供を伝授していただいた。フランスではドゥセーブル県のブリー村のはずれ、全く人里離れた田舎に古い狩小屋を見つけて借りて妻の融仙と共に修行に専念することにした。
 電気もなく、浴室もトイレもない。水だけは庭先に水道が一つあったが、冬には暖房もない簡素な名ばかりの住居であった。時にはジトジトした壁から水滴がしたたり、銅器の水が見る間に凍ってゆくのが見えた。指のしもやけがくずれて痛かった。こうした厳しさも苦にならず、静かな狩小屋は密教の修行に最適だったので、数年過ごした。夜中に起きて祈り、毎日の行法と誦えた真言の数を壁に張った紙に書き込んで励んだ。
 歓喜天に祈り始めた頃、話しかけると答が返り、友達になったようで驚き、面白く思った。
 ある朝、ふと見ると灯心が燃えている器のふちが黒く汚れているのに気がついた。常に清潔に保たねばならないことはよく知っていたが、夜中ずっと祈った後だったのでつかれて、すぐに掃除をする気にならず、心の中で白い器に黒い点々はきれいだよと話しかけて平気でいた。そして毎朝するように近くの農家まで歩いて牛乳をもらいに行った時、農家のおばあさんが牛乳を注ぎながら「何といおうと汚れは汚れだからきれいにせねばね」と私に言った。おばあさんの口をかりて歓喜天が言ったことだと、すぐに分かったので、直ちに掃除をしたことは言うまでもない。清潔は絶対に守らねばならない。さもないと歓喜天の御機嫌が悪くなる。その結果、大事なものを失くしたり、忘れたりする。掃除をするとすぐに見つかったことが何度かあった。
 歓喜天に祈るには、毎日食べ物を要求する象の世話をするのと同じ心構えがいる。私は歓喜天が大好きで、本当に生きている神様のように思っているので、おいしい物をさし上げて喜んでいただけるように心している。それがまた私を幸せにする。
 昔は歓喜天信仰は今より広まっていたという。人びとは生きるために厳しい生活をして、科学や技術だけに頼ることはなかった。今日では行≠する習慣が薄れて、人々の幸せのために一生神仏に仕える召使いになることを望み、夜中に起きて祈ることをあたり前に思う僧侶が少なくなっている。
 聖天様は恐いからという者は、怒りは意地悪ではなく厳しさであることを知るべきである。無視され、そまつにされた歓喜天が誤った悪習慣を修正させたいとされているだけのこと。逆の見方をすると、厳しさも、人や物事に直接働きかけた証拠である。だから、本当に加護されると思うと私にとってありがたくうれしいことに思える。
 これまで、私は大事故から二度は未然に守られたことを知っている。いくつかの困難もおかげ様で解決することが出来たのも適時適切な助言を得て、暖かい援助の手をさしのべて下さった人々に出会ったからである。
 最初の頃、もっとたびたび寶山寺にお詣りに来たかったが、フランスと日本の為替相場の違いが大きすぎて、とうてい無理なことであった。ある日、松本管長と話した時、高野山の奥の院は夜中に拝むとよいと言われた。弘法大師の御廟の前で真夜中から朝まで祈って、寒さに凍えていた私達に一人の親切な僧が暖かいお茶を接待して下さったのが縁となり、田子さんという友人が出来た。求聞持の修行もしたことのある田子さんの推めで、私達も求聞持の修行をすることになった。
 後に紹介された方が、寶山寺の近くに別荘を持ち、親切に提供して下さったので、それ以来日本に来る度に、立派な家に住み、毎日寶山寺にお詣りが出来た。弘法大師と歓喜天のおかげで得た不思議な出会いの一つである。
 フランスの光明院も不思議な夢や出会いがなかったら、実現しなかったと思う。ヨーロッパに仏法を広めたいと高い理想を持ち、祈り続けた十年後に願い通りの広い土地と大きな家と寺を得た。丁度その頃、私の両親の上に多くの難しい問題がふりかかっていたので、容易ではなかった。今思っても全くの冒険であったと思う。ある聖天行者は、おまかせにしてなるにまかせれば他の人々がしてくれると話しておられたが、その通りだと思う。しかし、フランスでは他人にまかせてなりゆきを待つことは出来なかった。力を合わせて働く同志も少なかったので、すべてを自分達でせねばならなかった。ただ、物事には時があり、丁度よい時に成るから思いどおりにしようと無理をしなくても良いことは分かった。
おかげをいただく用意をする
 双身の歓喜天は悟りに到達するために最も有効で神秘な姿である。人間の精神上の大切な両面を示しているからである。厳密に言うと、人間は思考したことは意識出来るが、それが浮かぶに至った経路は無意識である。こうした人間の心の弱点をよく知った上で、我々の成長を助ける歓喜天であるが、偽善や嘘は許さない。すべての苦悩の源であるにもかかわらず、自分の欠点を見る勇気のない者をゆさぶる。誠実さ、辛抱強さ、行動力、信念等をテストして、せっかくいただいたおかげを悪用して堕落しないか我々を見守る。歓喜天の御利益の与え方は、事態が困難になっても手を出さず破局の直前まで待ち、最後の寸前に予期せぬ出合いなどから、期待以上のずっと良い結果を得ることが多い。ご利益をいただくためには、それに値するだけの心の用意が出来ていなければならない。本当の信者は、困難に出会っても、信心をしたのにとか、信心は無駄なこと、世の中は不公平だとかは言わない。自分のいたらない所を捜してなぜこうなったのかを理解しようとする。
 人間は頭と心と身体からなっている。心に積み重なっている感情を通して頭で考える。そして、肉体の原始的生命力、性欲をコントロールするのである。情緒と知脳が調和して働けば、均衡のとれた感情と性欲となって、安定した人間性を開花する。精神も肉体と同じで少しづつ成長させるものである。影響をうけやすく破れやすいから大切に守り育てねばならない。子供の時のショックとか、両親や話し相手がなかったことから、一生の幸せをつかまえられないことがある。学業の失敗、きつい言葉に傷ついて心に恨みと深い悲しみを秘めると、絶えず自分の能力や価値を疑って、大人になっても結婚に踏みきれないとか、物事を自分から進んで出来ない等の原因となる。すっかり昔に忘れた事でも、心に深い跡を残して、人生観が変わることがある。故松本管長も、恨みや無知から、知らず知らずに色メガネを通して世の中を見ているとよく話されていた。そうした場合に、歓喜天の助けは実に貴重である。
 真言を誦えると、潜在意識の扉が開いて、生命力の貯えられている背骨の下にビヤナカが働き、困難な問題をも解決出来る力を得る。特に健康に関して有効である。十一面観音は心の底に隠された恐怖や悲しみを浄化する。歓喜天に祈ると心身共に調和を得る。自分はこの世に一人ぼっちではない、御加護されていると何かにつけて知らされる。  >>>次号につづく
(フランス・光明院住職(医師)融快・融仙さんご夫妻の文章を、本号より二回にわたり「歓喜」第一二二号(新春号)より転載させていただきます。神社神道とも大いに繋がるように思われます。)


おしらせ

第174回三重動物学会観察会のご案内
ムササビ観察会が開催されます。皆様奮ってご参加ください。
■とき 平成17年5月21日(土) 17:30〜
■ところ 水屋神社
■指導講師 清水善吉・冨田靖男 各先生
■準備物 双眼鏡・筆記用具
■備考 小雨決行です
■主催 三重動物学会
■連絡先 三重動物学会事務局
 鳥羽市鳥羽3-3-6(鳥羽水族館内) TEL:0599-25-2555
※動物に関する長短編報告、当会への意見、要望などを事務局までどんどんお寄せください。


御礼申し上げます

 京都九頭神社の宮司・中村重行宮司(フランス水屋神社建立実行委員会常任理事)から「フランス水屋神社」向けに狛犬一対が奉納されました。本年秋頃まで水屋神社境内の平和の碑の前に、仮安置する予定です。
 なお同時に、中村重行宮司によって「戦後六十年・日露戦争開始百年を記念」して灯籠一対が水屋神社境内の平和の碑に奉納されました。
 本当に、本当にありがとうございました。こころより感謝申し上げます。