水屋神社
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ホーム水屋神報>150号(平成15年2月16日発行)
 

「吉元(よしもと)将軍」とは

宮司 久保憲一

 台湾・台南市「白馬将軍廟」から日本軍神「吉元将軍」が平成十二年二月。私と共に、祖国・日本、わが水屋神社に三百四十年ぷりにご帰還、鎮座されました。現在、社務所の神殿にご神宝として拝戴申し上げています。
 昭和三七年(一九六二年)、台南市・中山女子中学の整地の折、台湾の中興の祖と呼ばれる鄭成功(母親は日本人・田川マツ)軍の部将である謝府以下、一〇六七名の骨壺がこの場所で発見されました。
  謝府は福建省・海戸出身の歴戦の勇士で、一六六一年(明・永暦一五年)、二千余の部隊を率いて台湾攻略の先鋒となり、オランダ軍と五ヶ月に及ぶ激戦の末、部隊共々全滅したのです(これは国姓爺合戦として有名です)。
 それからというもの、多くの市民の夢枕に白馬に乗った謝府が現れ、しばしば人々の救済の霊験を顕わしました。かくて謝府は「白馬将軍」と崇められ、翌年には市民や市政府により廟が建てられ、遺骨も納められたのです。
  廟の三体のご神体の主神はこの「謝府元帥」ですが、左輔神は近代服を身に纏った日本人で、「謝吉元将軍」と称し、出身や事績は不明ですが、謝府の側近として鄭成功に従ったというのです。吉元将軍の謝姓は廟の登記の時、日本人姓では具合が悪いという理由で義兄弟の謝の姓を付けました。
 また近代軍服というのは神像制作者がこの時代の日本人の服装を知らなかったためです。いずれにせよ、この廟に詣でると霊験あらたかだと評判になり、とりわけ経済界に人気があるといいます。


水屋神社御祭神のお話 第二回 龍神姫命(リュウジンヒメノミコト)様

 たびたび紙面においても御紹介いたしております、当社における水の守り神様の「龍神姫命」様でありますが、まとまった御紹介を致しておりませんでしたので、改めて今回紐解いてみたいと存じます。
 この神様は名前が表すとおり女性神であります。今から三百三十年前に著された『拾傳集』では「竜神女(リュウジンニョ)」と表され、それ以外の記録でも同様の名前でありますので、現在の名前になったのはそう遠くないものと思われます。
 以前も御紹介いたしましたように、「龍神姫命」という神様は全国を見回しましても当社だけに御鎮座されている神様ですのでよくわからない神様なのですが、先ほども申しました「竜神女」という神様で調べてみますと、インドの女蛇神(龍を表します)である「ナーギー」に突き当たります。
  この神様は女性の龍神で「根元的な力」の象徴としての信仰があり、天候を操る神であり水を守る守護神であるとされています。ですから「ナーギー」をこの「龍神姫命」様に当てはめることが出来ますとともに、この神様が日本外来の神様であるということが言えそうです。
 では、いつ、何故このような山の谷あいの神社に御鎮座なされることになったのでしょうか。
 ヒントはやはりたびたび取り上げてきました「春日大社御水送り」が大変関係していると考えられます。春日大社を氏神社とするのは平安時代に大きな権力を誇った藤原氏であります。この時代は沢山の外来文化が日本に定着した時期で、当然龍神様を崇める信仰も起こったわけですが、既号にも掲載したような飯高と中央の結びつきの結果、ここに藤原氏によって、水を清浄に管理する神「龍神女」様がお祀りされたものと思われます。
 このようにして考えると、外来の神様でありますから、当社にお祀りする神様の中では少し毛並みの違った神様であるといえますが、「八百万神」と言われるように、日本人は仏もキリストも「外国の神様」であり、たまたま御鎮座されている国が違っただけという、大変大らかな考え方をしていたことを窺わせる神様でもあります。〔写真は龍神女(ナーギー)様です〕(細)


水屋神社中遷宮準備を迎えるに当たって ―牛頭天王社の境内―

 明日十七日は、来る当社中遷宮の「手斧初め(ちょうなはじめ)」が遂に斎行されることになりました。氏子崇敬者皆様による平生数々の御協力と御理解の下、中遷宮準備に取り掛かる運びになりましたこと、宮司一同厚く御礼申し上げます。
 さて、最近当社に残る古文書を整理していましたら、寛延四(一七三九)年頃における牛頭天王社(現水屋神社)境内の様子が記された記録が見つかりました。当時の境内は今とどう違っていたのでしょうか。ごく簡単にまとめてみると、

・御神体 中・左・右の石壇三座に五神(牛頭天王・龍神女・蘇民将来・稲田姫・春日大明神)を祭る。極朱色の「春日造」であったが当時は本殿が無いと記されています。
・井垣御門 一宇長さ十五間(約二十七メートル)横十間(約十八メートル)
御神体を囲む板塀と門のことと思われます。
・鳥居 一宇
・拝殿 一宇 長さ五間(約九メートル)横三間(約五メートル半)
・神楽殿 一宇 五間四方(約九メートル四方) 
この当時はかなり痛んで使われていなかったようです。
(一間を百八十センチとして換算しています)

 これらの場所が正確に分からないのが残念です。ここには社務所が書いて無いですが、瀧野神社神主の瀧本氏がすぐ近くの作瀧からやってきて兼務をしていましたから、作る必要がなかったのかも知れません。また神楽殿が有ったというのも驚きです。また鳥居は現在の正面のもので、本殿脇の鳥居は当時は無かった模様です。
 他に記載されているものとして、境内の神木があります。古杉二本・古檜一本・古楠一本(大楠です)が書かれていまして、それぞれが伊勢神宮や八幡宮・瀧野神社・山神などの遥拝所として使われている様が記されており、大変面白い内容となっています。(細)


鎮守の森の声

崇敬者 田中 克昌(二十五歳 津市)

 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 新世紀を迎え、ますます"激動の時代"または"心の時代"と言われるようになりました。要らないものは否が応でも淘汰され、また人々は今まで以上に"癒し"を欲するという合理化の矛盾の中を生きています。私自身、この数年間はまさに"激動"の日々であり、また自分自身の"心"を試された日々でもありました。
 私が水屋神社に通うようになったのは、昨年の初秋からでしょうか。 昨年夏、仕事中に気を失って倒れてしまい、通院しながらほぼ寝たきりの生活が続いていました(原因不明)。そんな時「水屋神社に行こう」と思うようになり、思いきって久保先生にメールを送りました。実は4年前、鈴鹿国際大学で先生の授業を受講していたこともあり、水屋神社を知っていたのです。久保先生から返信メールが届きました。「早くいらっしゃい!」
 それからというもの、頻繁に水屋神社に赴きヒーリングをするようになりました。一日中、自然の声を聞きながら境内をまわり、音楽を聴きながら写真を撮ったりしています。おかげ様で、日に日に病もすっかり治り、また私にとって本当に進むべき道を見つけることができました。
 "心の時代"の原点はまさしく"鎮守の森"にあるのではないでしょうか?
  私たちの生活に大きく影響する「政治」は、太古の昔は「マツリ」だったのです。神を安置し、神霊を慰める儀式=「政治」を行った場所はどこか?紛れもなく"鎮守の森"だったのです。"心"は"鎮守の森"の化身、またはその逆だと思うようになりました。鎮守の森は必ず一人一人の中にあります。"内なる自然"なのです。
 私は神道というものは宗教ではないと思っています。"あるがまま""自然そのもの(ナチュラル)"だと思っているのです。生活の慣習に例えれば"お風呂"にあたります。素っ裸で「湯(水)」にドップリ浸かり、体を洗い、その日の疲れを落とす。嫌なことがあっても一風呂浴びればスカッと忘れてしまいます。「なるほど、これは禊(みそぎ)だ」と気づきました。とかく日本人はお風呂が大好きです。神道の精神、日本人の精神が無意識のうちに体に染み込んでいるのですね。