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十一月九日、春日大社への「お水送り」へ向けて
閼伽桶の井〜水屋神社〜春日大社 新たなる創造の掛け橋

 さて季節は残暑も過ぎ、学校などでは長い夏休みも終わり宿題を持って登校する九月となりました。あれほど蒸し暑く、汗を拭いながら執り行ったお水取り神事からはやひと月、この社務所にもいつの間にやら心地よいそよ風が吹き込むようになりました。秋の訪れを感じます。
 前回、前々回と、奈良春日大社への「お水送り」復活について掲載しましたが、本号は「お水送り神事特集」として、「お水送り」の歴史、さらには現代に蘇える「お水送り」の意義を、氏子崇敬者の皆様と共に見つめ直して見ましょう。
 そこには、赤桶のみならず、川俣谷全体の歴史が重なり合い、多くの先人達の声も聞くことができるかもしれません。


「お水送り」神事の歴史は飯高町の財産です

「お水送り」という神事、どうもその歴史を見ると、この飯高町一帯に伝わる「国分け神話」と大変関わりがあるようです。「国分け神話」では、春日の神(天児屋根命様[アメノコヤネノミコト])と伊勢の神(天照大神様[アマテラスオオカミ])が珍峠で出会い、大和国と伊勢国の境をどこにするのか、協議をした結果、「礫石」を投げてその落ちた場所を国境としたことが伝わっているわけですが、このときにこの水屋の森に天児屋根命様がお住みになられたことが江戸時代の古記録に神話として現われてきます。この後、今から千四百年程前には、天児屋根命様が一時春日大社へお帰りになる代わりに、水屋社の三神として素盞鳴命様(スサノオノミコト)・奇稲田姫命様(クシナダヒメノミコト)・龍神女様(リュウジンニョ)が御鎮座されたことが続いて記録に出てきます(現在水屋神社の主祭神は天児屋根命様です)。
 さて、お水送りの始まりはと言いますと、『飯高町郷土誌』にも記されている通り貞観元年(八五九)十一月九日とあります。この日は春日大社の春日御祭の始まりとされる日で、それに使われる御神水として赤桶の水が送られたわけでありますが、なぜ赤桶の水でなくてはならなかったのでしょうか。記録にはその理由として「春日の神である天児屋根命様が鎮座していた旧地であること、水屋社の三神が鎮座していたこと」が挙げられています。春日大社と縁が深いことは当然の理由ではあろうかと思いますが、この水屋社の三神が鎮座していたことも重要であったのです。特に「龍神女様」という神、当神社では現在「龍神姫命様(リュウジンヒメノミコト)」として祀られておりますが、もともとはどうもインドの神様の流れを汲む様で、「ナーギー」と言う蛇神、つまり龍神で水をつかさどる女神であるようです。この神は生命の源である水を清浄に管理する役割があるようですが、この神をお祭りする神社は今のところ私の知る限りでは当社の他に見つかっておりません。追跡調査中です。
 これらのことから、なぜ水屋神社が春日大社へ御神水を奉納するお社として選ばれたのかがおおよそ見当がつきましたが、もう一つ疑問が残ります。それは春日大社がなぜ御神水を必要としたのか、というものです。
 理由はよく判っていませんが、郷土史家である田端美穂氏の説では、当時の奈良は大仏や寺社の建立に用いられた大量の水銀が地下水脈に入り込んで、水が飲めない状況となっていた可能性を仰っています。これが本当ならば、御神水をわざわざ遠くの水清らかな場所に求めたのも、頷けます。
 赤桶の水が御神水として選ばれたのは、もとを質せば、春日の神と伊勢の神が水屋の社近くで出会い、国分けをしたことから始まります。しかもその神話の地名が、珍峠、加波、波瀬、舟戸のように、飯高町の各地に点在するのはとても興味深いことであります。そしてこの「お水送り」が谷筋を練り歩き、高見峠を越えて春日大社へと送られたであろうことを考えますと、現飯高町の地域は、お水送りの始まり、そして終焉までを共に歩んだ地域であると言えるでしょう。
 まさにお水送りとその歴史は、飯高町の財産と言えるのではないでしょうか。(細)


ここで突然ですが・・・国分け伝説に関係か? 久保切の「祓塚」

 右の写真ですが、最近当神社で確認した「塚」であります。ごく一部の方には知られていたようですが、氏子崇敬者の方々には初めて知られた方も多いのではないでしょうか。古老によれば「祓塚」「榊塚」などと呼ばれているものだそうで、古記録には「伊勢大倭両国の境としてよって境社と号す」とある「境社」の跡地ではないかと考えられます。このように現在ではもう分からない「国分け伝説」にちなむ場所は、飯高町各地に存在するのではないでしょうか。
 現在調査中ですので、詳細が分かり次第掲載する予定です。


飯高の歴史小話  お水送りの終焉と「天正兵乱」

 十一月九日に斎行される春日大社への「お水送り神事」は、一般に天正五(一五七七)年のいわゆる天正兵乱によって断絶したと言われますが、この兵乱は一体どのような戦いであったのでしょうか。少し氏子崇敬者の皆様とともに紐解いてみましょう。
 南朝の時代から永らく、雲出川の南岸から志摩半島を含む紀伊長島まで「伊勢国司」であった北畠氏の治める土地でありましたが、永禄十二(一五六九)年に織田信長に攻められ、講和の際、信長の三男信雄(のぶかつ)が九代国司具房(ともふさ)の養子となることにより、実質上、織田氏に乗っ取られてしまいました。この川俣谷の諸侍は代々国司家に忠節を尽くしてきましたから、その悔しさは如何ほどであったことでしょう。
 ところで、国司家の庶子は数代にわたり、奈良春日大社と縁深い興福寺の東門院に入って出家する事が続いていました。この宗家の事態に焦りを感じた八代国司具教(とものり)の舎弟は、還俗して北畠具親(ともちか)を名乗り、北畠家の回復を掲げてこの川俣谷の森にて挙兵し、それと時同じくして川俣谷や波瀬の諸侍も一致協力、各々の砦に立て篭もりました。なぜこの地域で具親が挙兵したかといえば、春日大社はお水送りなど水屋神社と強い結びつきを持っていましたし、また谷筋の諸侍も北畠家に忠義厚い人達であったことも理由でありましょう。
 しかし結果は散々の敗北を期し、各砦に立て篭もった諸侍の多くは戦死、具親も今の広島県に武威を誇った毛利家を頼って落ち延びてゆきました。このような戦いの結果、川俣谷一帯は荒れ果て、閼伽水を入れる赤桶も紛失したと言われ、お水送りを執り行う余裕を氏子達はまったく失ってしまったことでしょう。
 具親と共に戦った侍達の多くは、日頃氏子を指導する、谷筋の神社の氏子総代のような役割を果たしていた人達だったと思われます。この赤桶でも、彼らが立て篭もったであろう城跡があります。西願寺の背後に聳える「赤桶城」であります。この五十人も入れば一杯になるような小城で戦った赤桶の先祖達は、果たしてどのような想いを抱きつつ散って行ったことでありましょうか。
 以上は古記録も乏しい遥か昔の事件ですが、やはりこれによりお水取りが廃れてしまったようで、江戸時代中期頃の古記録には牛頭天王社(現・水屋神社)の祭典に「お水取り」神事は記されていません。しかし昭和十五年の時点では「お水取り」が以前から執り行われていたようですから、恐らく再興されたのはそう遠くない時期のようです。
 このように、いにしえの村の行事が断絶を経てまた復活し、今に伝えられていることは、赤桶のみならず、奈良と三重の歴史からみても、また全国的に見ても極めて驚異かつ奇跡とも言えることです。春日大社へお水送りを執り行っていた氏子の人々は、春日大社へのお水送りを地域の誇りとしていたことでありましょうから、その在りし形の復活を夢見て連綿と記憶を絶やさぬよう持ちつづけ、そして復活を遂げたので無いでしょうか。
 この度のお水送り神事復活、赤桶のみならず、川俣谷に散った多くの人々の歓呼の響きを感じる気が致します。(細)


飯高町の基礎資料 『拾傳集』の紹介

 最近の当神社資料整理の中でこの『拾傳集』が見つかりました。この資料はもともと滝野神社の宮司家で江戸時代に庄屋を務めた滝本家に伝わった原本を写したもののようです。内容は、周辺の歴史を記した書物を纏めなおしたもので、『飯高町郷土誌』にも資料として紹介されています。江戸時代以前の資料は皆無といわれる飯高町ですが、この『拾傳集』はそれらを克明に記した、飯高町の歴史を知る上ではまたとない貴重かつ重要な資料といえます。お水送りの云われなども記録されており、今後輪読会なども催したいと考えています。


現代に蘇えるお水送り神事 その意義とは?

 私がこの水屋神社にお世話になってからもう半年以上が経ちました。私やもう一人の出仕常山君もそれぞれ嬉野町・津市の人間で、飯高町というと「山奥」「お茶が美味い」「米があまり取れそうもない山奥なのになんで飯高なのかな」などと考えたりしておりました。
 我々がお世話になってからというもの、夏越大祓の盛大な挙行、お水送りの復活など、多くの素晴らしいニュースが続き、私達も今まで以上に気を引き締めて微力ながらお役に立ちたいと思っても居ます。
 さて、先ほども申しましたが、飯高町というとどうしても「山奥の不便な」というイメージを平野部や都会に住む多くの人々が思ってしまうのは残念ながら無理からぬことでしょう。飯高町役場が発行している町報の特集(二〇〇一年五月号特集)には、飯高町へ何故やって来たのかのアンケートに、

  1. 自然と親しむ(蓮ダム・森林浴・荒滝・高見山・ホテルスメール周辺など)

  2. 和歌山街道散策

などが挙げられ、これらの人はまた、「ちょっとブラリ」が約七十五パーセント、「観光」が二十五パーセントと、気軽に来れる自然の豊かな場所という意見が多いようです。
 この「ブラリ」が大変多いというのはとても重要だと思います。なぜなら、飯高町が「気軽に日帰りで来れて、自然が大変豊かである」という、都会の人たちが好きなときにちょっと一服したいときに来れる、身近な場所であることを表しているからです。たしかに、水屋神社に来られる方で多いのが (1)津(2)松阪(3)伊勢(4)奈良(5)大阪方面 といった具合で、「ブラリと遊びに来たついでに」という方が多いようです。大阪からも日帰りで来れるというのはすごいですね。
 ただこの町報の続きに、来てみて「悪いところ」というのがあります。挙げてみますと、

  1. 前より川が汚い

  2. 案内板が少ない

などがありました。確かに観光目的で来る人が多いわけですから、案内板が少ないのは致命的では有ります。しかしより問題なのは「川が汚くなっている」という意見だと思います。
 この飯高町は櫛田川の上流域であり、分水嶺の高見山を含む水源ということが出来ます。水は生命の源であり、森林は天然のダムであります。そしてその森林も、豊かな水資源の下で育っているわけです。しかしながら残念なことに、近年の材木不況で山は荒れ、また雑木に代わって杉や檜が植林されたため、山林の抵抗力や保水力が年々落ち、引いては水質の悪化、水量の減少を招いているとの事です。長い年月で考えたときに、大変深刻な問題といえるでしょう。
 ここでこの水屋神社の「お水送り」を併せて考えてみましょう。お水送りは先ほども書きました様に、水を掌る神「龍神姫命様」が、この櫛田川の源流に御鎮座されていることから始まったようですが、先に述べた櫛田川流域の自然環境が悪化しつつあるこの時期にこの神事が復活するということに、大変な意義を感じます。この神事は当時における清浄な水・貴重な水の象徴であり、当時の人々の水に対する強烈な憧れを表すものと考えられます。まさに水の大切さ、そして神水をお納めする誇りを持って永く谷の人々により守られ育まれてきた祭典であると言えます。
 また近年、特に都会の人々の中には「昔帰り」の風潮があると言われます。都会の喧騒に包まれて日々あくせく働く人たちの多くは都会生まれ・都会育ちで、「田舎」と言える場所や記憶を持たない人たちは自然と古い物を懐かしみ、自然に触れ、祭りを楽しみたいと考えるのだそうです。
 「ちょっとブラリ」の人たちの中には、この飯高の自然を心の「田舎」と思っている方もあるいはおられるかも知れません。今、一つの「田舎」の自然が変化を来たしつつある現状を考えるとき、これら飯高町外部の人々を交え、櫛田川や森林の将来を考える機会が必要かもしれません。
その多くの取り組みの中で、過去と対話し、水の大切さ・森の大切さを考える切っ掛けとして、このお水送りを捉えることは、大変有意義なものになるのではないでしょうか。
 神道では「古きを継承する」ということを大切にします。伊勢神宮の式年遷宮然り、皇室の年中行事然り、伝統をしっかりと守ることで私たちの自信や基盤となり、初めて新たな創造に踏み出せるからです。このたびのお水送り神事の復活は、本来の形に復活することで、奈良と伊勢の新たな関係の始まりを予感させるとともに、先に述べた、飯高町全体のあらゆる方面からの活性化にも繋がる可能性を秘めるものと言えましょう。
 この大事業を復活させ、更なる発展を考える時、この地で当神社を守り続けて来られた氏子崇敬者の皆様の御理解御協力が不可欠であります。お水送り神事開始以来、皆様の御先祖達が誇らしく継承してきたこの行事、是非とももう一度、皆様とともに復活させましょう。(細)


一四五号 編集後記

 左の写真は、前宮司であった故久保良任翁が、中学生を前に講話をしているところです。若い世代に昔話を伝え、そして郷土に愛着を持ってもらうというのは、大変重要なことでありましょう。若い人たちは多くを知りませんが、何より知らないがゆえに多くのことを吸収して、新しい考えを編み出し、更なる発展を遂げる可能性を秘めた人たちだと思います。
 これからはもっと大きな視点で、若い人たちに加え、飯高町を知らない三重県内の人々、あるいはお水取りで新たに飯高町を知った他県の人々との交流を通じて、水の大切さ、自然の有り難さを考えることが出来たなら、どんなに素晴らしいことでしょうか。
 この水屋神社が、そのような橋渡しを果たせたなら・・・と感じずには居られません。