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水屋神報

「水屋神報」復刊にあたって

宮司 久保憲一

 赤桶の先祖たちが清和天皇の貞観元年(八五九)十一月九日より、この閼伽水を汲み取り、ひとまず水屋のお社に捧げ、竜神姫に奉告し、春日大社に奉って正月暦を刷ったと伝えられています。七百有余年続いたこのお水送りは天正五年(一五七七)の兵乱で一旦途絶しましたが、その後も神水は本社へ奉納されてきました。しかし本年四月五日、春日大社神事用として四百二十五年ぶりに閼伽水奉納が復活し、今後毎年、春日大社へお神水をお送りすることになりました。本年はこういう目出度く、まことに記念すべき年でもあります。
 ところで、前宮司が昭和四十一年五月から同五十二年六月まで、通算一四一号、社報「水屋神報」を丹念に書き綴り、発行していました。この主要な部分は久保良任著「ふるさとの訛りなつかし」(株)三重タイムズ社刊として上梓されています。
 この度、社報をもう一度刊行しようと、当社研修生(出仕)の常山和哲君と細谷公大君が言い出しました。彼らが中心に編集するというのです。私は快諾しました。勿論、前宮司の社報とは趣の異なるものになるだろうと思いますが、さて今度はどのような「水屋神報」に生まれ変わるのでしょうか、楽しみでもあり、不安でもあります。氏子崇敬皆様のご笑覧を賜りたいと存じます。


一四二号は・・・水屋神社「夏越の大祓」特集
本年も水屋神社夏越の大祓を開催致します。

 例年、本水屋神社において夏祭りとともに八月に執り行われてきた大祓祭(夏越の大祓)ですが、本年は水屋神社をより多くの方々に知ってもらい、そのご神徳を体験していただこうということで、本来の夏越の日である六月三〇日に執り行うとともに、氏子の皆様の他、他地域の方々にも広く参加していただくかたちで考えております。
 他地域からの参加者については、皇學館大学日本文化研究会・日本思想を学ぶ会、インターネットタイムズ主催の「第一回 日本の歴史文化と精神にふれる会」と銘打って参加を募り、当神社の由来と歴史、神社周辺の名勝を知って頂き、また禊や茅の輪くぐりなど大祓を実際に体験して頂こうというものです。氏子の皆様にも奮ってご参加くださいませ。
 ところで、肝心の内容ですが、本年は櫛田川での禊、さらに例年になかった神事である「茅の輪くぐり」と共に挙行されることになりました。このような新しい神事を行う節目ということで、今回はこの大祓祭と茅の輪の意味と由来をまずご紹介したいと思います。


〈大祓と茅の輪、そしてスサノオの神〉

 人が知らず知らずのうちに犯した罪や過ち、心身の穢れを祓い清めるための神事を「祓」といいます。毎年六月と十二月の二回、その月の晦日に全国の神社で執り行われていますが、六月と十二月それぞれの大祓を「夏越しの(大)祓」「年越しの(大)祓」と言われています。
 大祓の起源を見て見ますと『古事記』に仲哀天皇が崩御されたとき「国之大祓」を行った記事が記されています。
 また平安時代初期の国家による法定書『延喜式』にも、六月と十二月の大祓が記されており、かなり古くから大祓が執りおこなわれていたことが判ります。
 大祓には「形代(人形)」(撫物ともいい、紙を人の形に切り抜いたもの)という紙人形を用います。これに自分の名前と年齢を書き、更にその形代で身体をなでて息を吹きかけますと、自分の罪穢が移されます。その上で海や川などに流し、わが身の代わりに清めてもらう訳です。
 さて、話が少しそれますが、三月三日に行われるひな祭りで「流し雛」の行事が有るところもありますが、この「流し雛」はもともと形代が原型で、流し雛の行事自体が大祓と同じく罪穢を祓う神事でありました。
 また、長い梅雨の時期になると「てるてる坊主」の軒先に吊るして雨が晴れることを祈りますが、このてるてる坊主も形代が原型です。ちなみに坊主頭をしているのは晴天の祈願をしたのが旅の僧や修験者だったことからだそうです。
 茅の輪の起源については各地に残る話ですが、一三〇〇年前に成立した『備後国風土記』逸文によれば・・・
「蘇民と巨旦の兄弟がおり、ある時スサノオの神が宿を求めた際、富豪の弟巨旦は泊めなかったのですが、兄の蘇民は貧しいのにも関らず快く泊めて優遇したのでした。スサノオの神は蘇民の一家に茅の輪を渡し「もしも疫病が流行したらその茅の輪を腰に着けなさい」といって去りました。何年か後に疫病が襲った時、その言いつけ通りにした蘇民一家は疫病から免れることが出来ました・・・」
とあり、この故事から、茅の輪を腰に着け、またそれをくぐる神事が起こってきたのです。
 大祓は古代中世を通じて全国で行われた「公」の祭事でしたが、残念なことに応仁・文明の乱を境に神事は行われなくなってしまいました。そして時を経ること四百年後の明治五年、時の明治天皇の思し召しにより漸く全国の神社において、大祓の神事は復活するに至ったのです。 この様にして現在全国各地のお社において、六月三十日に夏越の大祓が行われているのです。(常)


「茅の輪くぐり」その作法は?

 当神社における大祓の目玉(?)神事の一つは「茅の輪くぐり」ではないでしょうか?なぜならその由来が先ほどご説明した様に、大祓の大きな意味である「無病息災」を祈る神事そのものだからです。
 しかしながら、なに分当神社初めての試みなので、ここで少し氏子の皆様とともに私達も作法を予習をしておきたいと存じます。
 当日用意させていただいている茅の輪は直径二メートル強の大きな円形をしています。当日は境内に設置しています。孟宗竹の支えで左右と上を固定してあります。
 茅の輪は単純にくぐれば良い訳でなく、きちんと作法があります。

  1. まず輪の正面から入って頂いて、そのまま通り過ぎずに輪の左側へ竹の柱に沿って巡り、もう一度輪に入ります。

  2. そして左側と同じように右側も竹の柱に沿ってグルッと巡り、また輪に入ります。

  3. そのまま本殿の方向へ抜けます。

というものです。
 当日は宮司以下神職が先導致しますので問題はないと思いますが、この様に「左、右、左」という風にくぐるのは大麻や御塩で祓う作法と同じで、丁度「8の字」を少し余分に茅の輪を巡る訳ですから、ちょっと複雑ですね。
 それから重要なことをもう一つ。「水無月の夏越(なごし)の祓する人は千歳のいのち延ぶ(のぶ)というなり」という和歌があります。この和歌は今から千年余り前に成立した『拾遺和歌集』に収められているもので、この歌を唱えながら茅の輪をくぐる作法が古来から為されていたようです。和歌の意はこの行事そのものを表していますから、言霊を自ら発することで、現実に一年の上半期に積もった悪いものを取り除き、残り半年を元気に過ごせるようにするためのものといえます。今回もこの和歌を唱えながら執り行いたいと存じます。
 御祭神の素盞鳴尊様以下、宮司一同、皆様の御参加をお待ち申し上げております。(細)


『大祓準備着々と進んでおります』 ―大掛かりな今年の大祓とは?―

 大祓には「禊」は付き物です。当水屋神社は、御祭神の一柱に竜神姫命様をお祭り申し上げ、そして裏手には清々しく水を湛える櫛田川があるにも関わらず、禊を川においては行っていませんでした。
 理由としては、崖下に下りる道の足場が非常に悪く安全面に問題があったためですが、この度「禊場」を櫛田川の畔に設置すべく、氏子である今西偉之さんの仕事により非常に立派な足場を作ることが出来ました。早速今回の禊を櫛田川畔において行う予定です。
 禊場となるであろう場所に立ってみると、対岸の岸辺には沢山の赤いツツジが花を咲かせており、また下に目をやれば、大きな鯉が悠々と前を横切っていく・・・・。 そして周辺には青空に突き刺さるような青々とした新緑を湛える山々を仰ぎ見ることが出来ます。この様な場所で川中に禊をするというよりは、この清浄な景色を目の当たりにした瞬間に禊をしている、そんな気分が致しました。
 また先に書きました茅の輪ですが、これも直径二メートル強の大きさに作りました。縄を巻きつけてコツコツ作り上げたものですが、実にこれは県下最大「級」の大きさであります。またこのような大きさの茅の輪を支える、太くて硬い竹材については、これもまた氏子の村瀬氏に大変なご助力を頂き、揃えることが出来ました。
 ご協力を賜りました皆様、本当にありがとうございました。
 また、文頭にも述べました「第一回日本の歴史文化と精神にふれる会」ですが、これにより当神社をご存知なかった多くの方々に、当水屋神社の魅力や神社そのものの意義を知ってもらえればこれに勝るものはありません。
 多くの新しい試みばかりの今回の大祓ではありますが、今後とも氏子の皆様をはじめ、多くの方々の御指導と御鞭撻を賜りたいと存じます。(細)


《水屋神社あれこれ》

 この欄では、最近の神社のニュースや行事について紹介していきたいと思います。

(夜の珍入者! フクロウの赤ちゃん)
 去る五月二十四日付『夕刊三重』の記事となったフクロウの赤ちゃん。神社に観に来られた方も多いのではないでしょうか? 私(細谷)が初めて拝見したのは二日後の二十六日日曜の事でした。既に白い産毛が大分生え変わり、殆んど成鳥と変わらない薄ねずみ色の羽毛となっていましたが、餌(砂肝らしい)を与えようとすると嘴を「カツカツ」と鳴らして甘えて(威嚇してるのかも?)いました。宮司に保護された時には嘴から血を流していたそうですが、この時もまた傷跡がかさぶたになって残っており、変に愛嬌が感じられて可愛くありました。
 面白いのは、保護されたときに宮司が白い作務衣を着ていたせいか、白い服を着ている人間を母親と間違えるようで、私も同じ作務衣を来ていたので目で追っていました(かわいい!)。
 その日一日は親子連れで多くの参拝者がいらっしゃいましたが、中にはフクロウだけ見て帰っていかれる方や、「ムササビも見たい!」とせがんで来るお子さんも居て、大変忙しい一日でありました。
 「鎮守の森」の生態系に与える重要性が説かれるこの頃ですが、「水屋の大楠」は勿論、先日の『伊勢新聞』(五月二十九日付)記事で取り上げられた栴檀の花など、多くの四季を感じさせる環境があることを考えると、これからもこの「赤桶の鎮守」を伝えていくことは大事なことであると考えさせられた一日でした。


(光の御柱建立 世界中の子供の御魂の救いのために)

 来る六月十一日の午後十二時より、当神社境内において、六カ国語による「無限なる光」のポールを建立致します。
 近年富に世界各国で紛争の機運が高まっています。アフガニスタンが一先ず治まったかと思うとパレスチィナ、そしてまた今度は印パ国境と言う具合です。戦争は西洋では火星神マルスが人間に戦争による解決という悪知恵を教えたために地球上に戦争がはびこってしまったという神話があるそうですが、民族や信条の対立が留まる事は果たして無いのでしょうか?
 悲しい現実ですが、そのような争いに巻き込まれ、そして犠牲となる子供たちは年々増加している様です。このような子供たちに光の道標を指し示すことが出来れば。このポール建立にはそのような願いが込められています。
 ポール建立の後一時三〇分からは、NHKのど自慢チャンピオン大会出場の柳沢直美さんによる奉納演奏もございます。奮って御参加ください。


編集後記

 私たち水屋神社研修生が宮司に『水屋神報』復刊の希望をお伝えしたのは、先代宮司が著し、現宮司が中心となって監修・発行した『ふるさとの訛りなつかし』(三重タイムズ社)を拝見し、その先代宮司の氏子と神社の繋がりを大切にされたことを非常に痛感したことが発端となっています。かつて村の氏子は神社を中心に日々を営み、あるいは暮らしの精神的支えとしていました。それは「村」という存在が現れた平安時代以降には確実に作られていた日本の「形」です。それが近年の過疎化あるいは価値観の転換により崩壊しつつあります。それはある意味で仕方のないことかも知れませんが、それでは余りに悲しすぎると思えたのです。
 現宮司は大学の我々の恩師でもあります。その縁により訪れたこの水屋神社は、とても清浄で、静かで、暖かくありました。神社そのものと、それを支える氏子の方々を初めとする人々との交流があるためだと我々なりに悟りました。
 神と人との対話。この難問をコツコツと続けて来られたのが先代宮司であり、その手段の一つが水屋神報であったと感じ、宮司に無理を言って作らして頂いたのがこの一四二号『水屋神報』です。
 表現の含蓄や言い回しは勿論、内容そのものも先代宮司の手がけられたのに比して格段に見劣りする出来栄えとはなりましたが、これからも何卒厳しく、暖かく見守ってくだされば幸いと存じます。

水屋神社研修生 皇學館大学博士前期課程国史学専攻一年  常山和哲
          同                細谷公大